about US Southern Food

日本人にとってのアメリカ料理

 アメリカ料理ときいて、どういう料理かすぐ頭に浮かぶ人は、稀だと思います。ベトナム料理なら生春巻きやフォーが思い浮かぶし、タイ料理ならガッパオライスやパッタイを想像するけど、アメリカ料理なんてあるの?と思われるかもしれません。もちろん、アメリカ人だって食事はするし、料理もします。しかし、フランス料理や日本料理のように、料理というのは、ある程度プロフェッショナルな技法として確立されていないと、一つの分野として認識されるのは難しいものです。しかし、どこの国の料理であれ、家庭で作られるものと、専門的な空連を積んだプロのシャフが作る方法は、必ずしも同じではありません。専門的な料理方法が確立されていなくとも、その国やその地域に根付いた、料理というのは必ず存在するのです。

 従って、日本のプロの料理人たちがフランス料理の技法を知っているということと、私たちが一般の家庭で食べられているフランス料理を知っているというかということは、全く別の問題です。これは海外の料理が、日本でどのように受け入れられるのかという、歴史的な過程に着目してみると、よく理解できます。原則として江戸時代まで、日本人では肉食は一般的ではなかったし、明治になっても海外の食材をしいれることも、料理方法を学ぶことも、今とは比較にならないくらいに困難であったはずです。にもかかわらず、明治28年には銀座に「煉瓦亭」が開業し、明治30年には東京に洋食店が1500軒もあったそうです(Wiki) 。今日言わば洋食と称して、私たちが日常的に食しているハンバーグやグラタンなどは、この当時の先進的なシェフたちが、限られた書物をもとに、一部のフランス料理の技法をモデルにして成立したものです。自分たちが食べたこともみたこともない海外の食事を、何とかして日本の食文化に取り入れようとする、先人たちの努力はある意味驚嘆に値します。しかしながら、これらの洋食文化は、日本人シャフが日本人のために考え出したもので、ヨーロッパの食文化というよりは、むしろ日本食の一部としてとらえるべきです。

 戦後になると、学校給食を通じてパン食と牛乳が一般化し、アメリカの食文化の大量移入が始まります。1969年の飲食業が自由化されると、アメリカ資本が流入してきて、日本の飲食業が大きく変化します。1970年にKFCの一号店、1971年にはミスタードーナツとマクドナルドがオープンしています。いファーストフードだけではなく、宅配ピザやスターバックスのようなカフェなど、アメリカ資本が日本の食文化に与えた影響は、計り知れないと言えます。日本では、アメリカに飲食業は、時代の先端を象徴する新たなものであると常にとらえられてきた一方で、アメリカではファーストフードはただのジャンクフードでしかありません。だからこそ、クリスマスにファーストフードでお祝いするなどいう奇想天外な日本人の風習に、多くのアメリカ人は目を丸くすることになります。つまり、私たちにとってなじみのあるアメリカの飲食産業は、アメリカという広大な国がもつ様々な形態の食生活の、ごくわずかな断片にすぎません。

 文化的、経済的な圧倒的な先進国であったと考えられていた、ヨーロッパやアメリカの食文化を、日本人は積極的、もしくは否応なしに、自分たちの食生活にとりいれてきました。そしてあたかも、西洋の料理やアメリカの食事については、知ったつもりになっていて、実のところ、多くの人はヨーロッパの料理やアメリカの料理について、あまり知られていないように思います。さらに、日本の国土の25倍もの広さがあるアメリカの食文化は地域によってかなり違います。広大な国土をもつインドや中国でも同様な傾向がみられますが、大雑把にいうと、北が小麦の文化で、南がお米の文化になります。そもそもパン食に適した良質な小麦は、寒い地域でしか栽培できないからです。現在では流通が発達しているので、それほど厳密にわかれているわけではありません。それでもお米、トウモロコシ、豆、その他様々な野菜など、食材の種類の豊富さは、アメリカ南部料理の特徴の一つです。食生活は、その土地の文化やライフスタイルを決定づける、最も根源的で重要な要素です。そして、単なる料理の技法やレシピを学ぶだけではなく、その文化的、歴史的な背景がわかるようなると、海外の料理を覚えることはすごく楽しくなります。

アメリカ南部とプランテーション農場

 歴史的にアメリカ南部の経済は、プランテーションシステムという、アフリカ系アメリカ人の奴隷の労働を必要とする大規模は農業経営に大きく依存してきました。アメリカ南部という定義は、このプランテーション農業中心という、かつて独自のライフスタイルを保持していた地域に対して使われることが一般的です。どの州をアメリカ南部に含めるのかというのことは、明確に定められているわけではありませんが、最も一般的な定義は、南北戦争のときに、奴隷制存続を支持して、アメリカ連合軍に参加した、ヴァージニア州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、テネシー州、ジョージア州、フロリダ州、テネシー州、アラバナ州、ミシシッピ州、アーカンソー州、ルイジアナ州、テキサス州です。この中でもとくに、プランテーション農業への経済的依存が大きかったサウスカロライナ州、ミシシッピ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州を、ディープサウスと総称されます。一方、北部のアメリカ合衆国から離脱しなかったけれども、奴隷制を容認していた、ウェストバージニア州、デラウェア州、メリーランド州、ワシントンDCも、アメリカ南部に含まれることが多いです。

 従って、サザンホスピタリティなどと言われるような、南部独自の文化的特徴も、その起源はプランテーションシステムにあります。プランテーション農業の労働を担っていたのは、アフリカ系アメリカ人による奴隷労働でしたが、奴隷貿易によってアメリカ南部にたらされたのは、極端に安価な働力だけではありません。 ブラックアイドピー(黒目豆)、米、オクラ、ピーナッツなどは、アフリカからアメリカにもたらされ、今日でもアメリカ南部料理にはかかせないものとなっている食材は少なくありません。また、実際にプランテーションの厨房を担っていたのも、アフリカ出身の奴隷であったため、彼らにとって馴染みのある食材と調理法が、アフリカ南部料理の基盤を作ったとも言えます。アメリカ南部で米食が普及したのは、アフリカ系奴隷が、米の調理法を心得ていたからです。多くのアフリカ系奴隷は西アフリカ地域の出身であったため、アメリカ南部料理とその調理技法において、西アフリカの食文化との類似性が多くみられます。

 一方、奴隷という特殊な労働形態が、調理方法に与えた影響も見逃せません。南部ではもっともポピュラーな豆であるブラックアイドピーは、もともとは飼料用として栽培されていたと言われます。また、カラードグリーンなど、アブラナ科の葉物野菜を、長時間煮込むのは、サラダなどでは生では食べずらい、硬い部位を有効利用するためです。野菜や豆は、豚の蹄は耳など、通常では食さない部位を燻製にしたものとともに煮込むことが多いのですが、そのままでは食肉に適さない豚肉の部位を、最大限に利用することに有効です。そして、歴史的に南部料理は、フライドチキンのように、油を使ったこってりと料理が多いことも一つの特徴ですが、これも過酷な奴隷労働を支えるために、必要不可欠であったとも言えます。

 奴隷制が廃止されても、多くのアフリカ系奴隷は南部の農場での仕事を続けましたが、1920年頃から、アフリカ系アメリカ人は北部の都市部への移動は徐々に始まります。第二次世界大戦中には、連邦政府は新しい産業と軍事基地を南部で開発したため、さらに多数のアフリカ系アメリカ人が、北部の都市部へと移動していくことになりました。彼らは馴染みのない北部の都市に引っ越した後、故郷の料理を囲むことは、残した家と家族を思い出させてくれる貴重な時間となりました。そして公民権運動が高まった1960年半ばごろ、アフリカ系アメリカ人自らが、彼らの故郷の料理をソウルフードと総称するようになります。 soul という英語には、soul mate などというように、「魂の」という意味があるので、ソウルフードを「魂が求める食事」と解釈するのは間違いではありませんが、アメリカでsoul と言えば、soul music などというように、黒人文化全般を総称するものです。従って、アメリカの北部では、ソウルフードと言えば、アメリカ黒人の料理ととらえるのが一般的ですが、実質的にはアメリカ南部料理と大きな違いはありません。

 

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